ロシアのフィギュアスケートコーチであるエテリ・トゥトベリーゼさん。
若い頃はどんな生活を送っていたのでしょうか。
また、家族やお子さんはいるのでしょうか。
今回は、エテリ・トゥトベリーゼさんの生い立ちや、若い頃について調べてみました。
【悲劇】エテリトゥトベリーゼの生い立ちが壮絶!?
エテリ・トゥトベリーゼさんは、1974年2月生まれのモスクワ出身。
若い頃はスケート選手でした。
国の経済状況の悪化などから、大会へ出る費用などが払えずにに引退。
18歳で米国へ単身渡米し、家族へ仕送りしていた過去があります。
米国にいる間、シングルマザーとして娘を出産。
テロの被害者となってガラスが体にささってしまったなど、壮絶な過去があったようです。
さっそく子供時代からみていきましょう。
エテリトゥトベリーゼの子供時代
家族は両親と5人の兄弟
兄が1人、姉が3人の5人兄弟の末っ子として生まれました。
出典:Instagramより(右)
父親は二交代制の工場で働いていたそうです。
裕福ではないものの、家族を養うために最大限の努力をしてくれたといいます。
母親は、娘たちには外国語や楽器の演奏を習得させたいという考えを持っていました。
出典:Instagramより
姉たちは、ドイツ語や英語を習い、エテリさんは、イッポリトフ=イワーノフ音楽学校でピアノを専攻し、優秀な成績で卒業しているそうです。
フィギュアスケートをスタート
エテリさんは、4歳のときにスケートを始めています。
サッカーに行く兄を母親と送った際、スタジアムで華麗なスケートを目にしたのがきっかけで、魅了されてしまったとのこと。
母を説得し、優秀なコーチの教室に入れてもらったそうです。
出典:Instagramより
最初はシングルの選手でしたが、脊椎にひびが入るという怪我を負います。
カルシウム注射などの治療で身長が急激に22cm伸び、170cmになったそうです。
身長が伸びたこともあり、シングルではうまくいかなくなって、アイスダンス選手に転向しています。
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18歳で米国へ出稼ぎに
高校生であった1980年代は、国の経済が深刻な状態にありました。
大会に出る資金がなくなったことで、現役選手を引退しています。
アメリカでの職を紹介してもらい、18歳で渡米。
フィギュアスケートのショー「アイス・カベイズ」の一員となり、全米をまわりました。
給料の一部は両親に仕送りしていたため、生活は厳しかったようです。
20歳でテロ事件の被害者に
1995年4月、20歳の時にオクラホマシティでテロ事件が発生。
ビルの前にあるYMCAで寝泊まりしていたエテリさんは、ガラスの破片が体に刺さり、怪我を負ってしまいます。
のちに被害者には保証金1200ドルが払われ、そのお金で中古車を買ってシンシナティへ。
3年ほどアイスショーに出演し、コーチに転向しました。
シングルマザーで娘を出産
2003年に、アメリカのネバダ州で娘を出産しています。
ロシア風の名前ではなく「ダイアナ・デイビス」と名付けました。
シングルマザーとして育てていて、父親は明かされていません。
2歳でスケートに連れて行くと、みるみるうちに上達したそうです。
母親と同じく、当初はシングルの選手でした。
娘は健康でしたが、2歳の時に医療ミスにあい、徐々に聴覚に障害が出始めました。
耳が悪いので、パートナーがいた方が良いだろうということで、アイスダンス選手になっています。
出典:AsahiShimbunGLOBE+
2022北京オリンピックのアイスダンス部門に出場し、14位という結果でした。
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ロシアに帰国
エテリさんはアメリカでコーチを始めますが、家族が恋しくなり1999年にロシアに帰国。
出典:Instagramより(エテリさんの父親と娘のダイアナちゃん)
出典:Instagramより(5人の兄弟と母親)
コーチ業で職を探しますが、全て断られ、最初うまくいかなかったようです。
しかし、モスクワ郊外でなんとか職を探し、徐々に評判となったといいます。
2013年、39歳の時に「サンボ70」のコーチとなります。
リプニツカヤを育てたことがきっかけとなり、世界一の金メダル養成学校となりました。
エテリ・トゥトベリーゼのプロフィール
- 生年月日 1974年2月24日(47歳)
- 出生地 モスクワ
- 役職 サンボ70 コーチ
- 指導選手:
エフゲニア・メドベージェワ
アリーナ・ザギトワ
エリザヴェート・トゥルシンバエワ
アンナ・シェルバコワ
アリョーナ・コストルナヤ
カミラ・ワリエワ
ユリア・リプニツカヤ
アレクサンドラ・トゥルソワ
セルゲイ・ボロノフ
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まとめ
今回は、ロシアのフィギュアスケートコーチであるエテリ・トゥトベリーゼさんの生い立ちや、若い頃についてお伝えしました。
フィギュアスケート選手は、経済的な理由もあって引退してしまったようです。
生活費を稼ぐために18歳でアメリカに渡って、アイスショーで働きながら家族に仕送り。
ロシアに帰って本格的にコーチ業を始め、今では世界的に有名なコーチになっています。